デザインと偶然性

P1030817.JPG何年前だったか、アメリカ旅行から帰ってきて、東京から松本まで帰る電車の中での出来事です。後ろの席で、2人の男性が話を始めたのが、耳に入ってきました。窓のガラス越しに一人の方は日焼けした顔に、地味な背広の60代くらいの職人さん風、もう一人は上品な服装の紳士風な感じでしたが、お顔は見ることができませんでした。そのうち二人が芸術論議を戦わせ始めたんです。どちらも、日展かなにか、そういう組織で活躍されている彫刻家の方達のようでした。そして、その日、紳士風の装いの方が公演をされたようで、その帰りだったみたいです。
で、最初のうち、二人の会話は、その日の公演の内容か何かだったり、昔話だったりしたのが、一人の人が、幼稚園児の絵のすばらしさについて語ってから、急に話の向きがおかしくなってきたわけです。もう一人の人は、それに異を唱え、美しい絵というものは偶然には生まれない、だから、幼児が描いた絵のようなものには、芸術と言うものは感じられないし、自分には認められない!と力説。もう一人は、いや、幼児が無邪気に描いた絵には純粋さが感じられて美しい!と言うような意見。さすがに大人の2人は喧嘩こそしなかったのですが、緊張したムードのまま途中で降りられたのでした。

私は、それぞれが、年齢を重ねた作家の方のようだったので、そんな貴重な意見のぶつかり合いに遭遇できたことがすごくまれな機会だと思い、真剣に聞いてしまいました。しかも、アメリカでは、美術館をめぐって、すばらしい作品に触れ、刺激をうけて帰ってきた直後だったのでその延長のような感じもしました。
勿論どちらが正しいとか言う問題ではないですが、それぞれの作品に対する取り組みの違いみたいなものはおのずとあるのだと思います。

ちなみに、俊一さんは、後の方の意見と同じようなことをよく言います。
偶然に良いものができるということはあるのかもしれないけど、同じものをもう一個作れるかどうかが大切だと・・。
例えば焼き物なんかだと、初めて陶芸をして、少しゆがんだ湯飲みができても、それが、案外と良いって事もあるかもしれないですよね。でも、俊一さんは偶然でできるかもしれない形ではなく、考え抜いた結果のデザインがデザインだと考えているみたいで、良くそういうことを言っています。
最近も、ガラスの工房小口硝子さんにウイスキーのグラスをお願いしたんですが、なぜ彼なのかと言うと、同じ形を6個作れるから。(6人の仲良しのお友達で頼んだのです。)
そして注文したデザインをそのとおりに形にしてくれるから。
同じ形を何個も作れるということが、美しいものを作れるかどうかの基準になっているみたいです・・・。
私も、やはり、幼子のような無邪気さがどんなにすばらしくても、熟練した技術によってのみ、あるいは考え抜くことによってのみ、デザインは生み出され、製品という形になると思います。
皆さんはどう思いますか?